【ちか的略歴】

1967・4・11、四人弟妹のトップバッターとして東京都大田区に生まれる。

第一子として、それはそれは可愛がられ、果物は熟した部分だけを丁寧に絞って飲ませ、いつも美味しい所だけ食べさせていたと母が自慢気に語っていた。

食べ物に執着するのは、母のこの食育のせいではないかとふんでいる。

 

しかし、この天下も、二つ違いの弟が産まれてからは毎年毎年立て続けに妹・弟と増え、気付けば「小さいお母さん」として、共働きの両親の代わりに大層な義務と責任を追わされることに。

 

小学校低学年の頃、担任の先生に「あなたは頭が良いんじゃないのよ。努力家なのよ。」と不意に言われ、意味が良くわから なかったが「そうか、私は努力家なのか」と素直に信じ、努力をしようと心に誓った。

 

後に、4月生まれで成長が他の月の子より早いから、成績が良いのは今だけよ、と言うことが担任は言いたかったんだと気付く。

中学入学前に港区に転校し、席に着くやいなや「転校生だからって甘えるなよな。」と隣の席の子に言われ、大田区とのカルチャーショックを受ける。

ここで、人生一度きりのイジメも受けることに。

 

中学入学と同時にそれまで名乗っていた日本名から韓国名(しかし日本語読み)を名乗ることに。

まったく韓国語の話せない韓国籍な自分になんとなく違和感を感じつつ、中学ではメキメキと持ち前のバイタリティを発揮し、クラス委員・生徒会副会長・テニス部部長と先生方からの信頼も厚いやや目立つ存在へ。

 

成績にはそこそこ自信があったものの、なぜか高校受験に失敗し、ここから人生が大きく変わることに。

行く気のなかった高校では、一刻も早くここから抜け出さなければともがくも、朱に交われば・・で、夏を迎える頃にはすっかり馴染んでいた。

高校でも、クラス委員・学園祭委員・修学旅行委員・卒業アルバム制作委員と、お祭りには首を突っ込む下町のおばちゃんのようになんやかやと活動。

仕切りばばぁ体質はこの頃に確立された模様。

初めてオトナの男性、つまりは先生を好きになり、ここから年上好きも確立された模様。

 

大学受験もこれまた失敗し、浪人しても遊んでしまうと自分の性格を正確に分析し、とりあえずまだ学生でいたいとあわてて音楽の専門学校へ進む。

なんと専攻は作曲。

ほんの少しピアノが弾けただけでの選択。

今流行のゴーストライターを使うという手が思いつかなかったので、自分で弾ける程度の拙い曲でなんとか題名の面白さだけで乗り切る。

この頃、選択授業でジャズボーカルと出会う。

 

在学中の19歳の時に父が他界。

家族と離れた暮らしが始まる。

 

卒業後、まだ自分が一体なにがしたいのかわからず悶々としている中、当時何かと利用していた雑誌「ぴあ」の告知欄に劇団員募集の記事を見つけ、応募資格が18歳以上で作文と履歴書だけを送れば良いという簡単さに軽い気持ちで応募。

書類選考300名の中から最終選考5名の中にまで残るが、その年は該当者無しと言うことで 結果的には落選。

その劇団は「第三舞台」

当時まだ芝居に興味がなかったため、どんな劇団かも知らずに受けていたことは言うまでもない。

受からなかったことに、「やっぱり才能ないんだ」と思っていると、たまたまバイト先の先輩が「勉強しないで最後まで残ったなら、ちょっと勉強すれば受かるよ」と言ってくれたことで「そうか、勉強すれば良いんだ!!」とうっかり芝居の道へ足を踏み入れることに。

この時は、この一歩がどんなことになるか想像すら出来ていなかったことも言うまでもない。

 

勉強するより舞台に立った方が早いのでは・・と思いつき、キャストオーディションを受け始める。

キャラクターを面白がられ、経験がないにも関わらず合格。

いきなり舞台に立ち、千秋楽公演が終わった後に、自分が何も出来なったことに気付き号泣。

なぜ最初か途中で気付かなかったのか未だ不明。

この時、納得出来る芝居が出来るまで続けよう!!と決めた。

どんな恐ろしいことになるかも気付かずに。

 

その後、色々小さい舞台に立つも、このままじゃ食えない!!と判断し、知り合いが所属していた事務所の新人オーディションを受け所属に。

そこで初めて受けたオーディションが、NHK朝の連続テレビ小説。

所属事務所から書類が通ったのはただ一人で、一次選考・二次選考と進むも落選。

落ちたものの担当者から、「今回は合う役がないがキャラクターが気に入ったのでなにかあったら声をかけます」との直筆の手紙を頂くが、飛んだ社交辞令だなと鼻で笑い、気分転換に友達と南の島のフィジーに遊びに行き真っ黒になって帰って来ると、看護婦の役が回ってきたと。

真っ黒なため真っ青になってもわからない顔で担当者に会いに行くと「ずいぶん焼けましたね」とニッコリ笑われた。

その作品「ひらり」がテレビデビュー。

当時は「金 佐知香」と名乗っていた。

この芸名をつけるため数万円払ったのは遠い昔のこと。

 

何の勉強もしないままいきなり舞台に立ったりテレビに出たりしていたため、キャラクターだけが先行し中身が伴わないギャップに苦しんでいた時に、たまたま通っていたジャズダンススタジオの掲示板に「塩屋俊アクティングスクール」(現・アクターズクリニック)を見つけ第一期生の門を叩く。

たまたまレッスンを見に来ていた原田真人監督の目に留まり、「トラブルシューター」で映画デビュー。

男装した女性(ロミオ)と女装した男性(ジュリエット)のカップルというなんとも風変わりな設定は時代を先取りしていたのだろう。 

 

のらりくらりと芝居を続けていた32歳の春、母が他界。

母の望み通り芝居を止めようと決意。

失意の中、四国への一人旅で、自分の業の深さを知る。

心のどこかでは、このまま一人消えてしまおう・・

と思っていたはずなのに、せっかくだからと高知城に登り、桂浜で闘犬を見て興奮し、カツオの叩きに舌鼓を打ち、挙句の果てには四万十川でカヌーを楽しみ、すっかり旅を満喫していた。

そして、気付いた。

 

私は母の分まで思いっきり好きに生きれば良いんだ!!

と。

 

そんなこととは知らない妹には、携帯の電波が悪くて連絡が取れなかっただけにも関わらずこっぴどく怒られ、楽しい写真の数々を見て呆れられ「お姉ちゃんはどこでも生きて行けるよ」と太鼓判を押される。

 

40歳の時に自分へのご褒美でニューヨークに3ヶ月滞在。

ジャズボーカルの先生に、「ちかはもっと歌いなさい」と言われ、ライブ活動を真剣に考え始める。

 

2009年、沖縄の離島・小浜島で3ヶ月オールロケという画期的な撮影で始まったテレビ東京最後の昼ドラ「かりゆし先生ちばる!」にレギュラー出演。

妊婦で子だくさんという島の母ちゃん役にスッピンで挑む。

妊婦役のため夜のシーンにはあまり出演がなく、そのためレギュラー陣で一番時間があったため気付けば島の人たちと一番飲んでる女優に。

妹が言った「どこでも生きていける」はあながち間違いではなかった模様。

 

2012年、恩師である塩屋俊と舞台「HIKOBAE」で共演。

ニューヨークの国連本部・福島の相馬市等で上演し好評を得る。

翌年も同じ舞台でロサンゼルス・ニューヨーク・岩手の宮古市等あちこち回り、千秋楽の仙台公演の開演間際に、恩師・塩屋俊が急死という事態に。

「Show must go on」どんなことがあっても幕を開けて芝居を続行するということを痛感。

第一期生として一緒に舞台に立てたことが、なによりもの恩返しになったと信じている。

 

現在、フリーで活動中。

舞台・テレビ・映画と仕事があればなんでも引き受ける。

ライブは不定期に開催しており、ジャズなのに面白いと一部ファンからは「ジャズ漫談」と評され熱狂的人気を得ている。

2012年から神田にてオトナの酒場「サロン・ド・アリエス」をオープン。

酒場を愛する者として、酒場文化を継承して行こうと夜な夜な正しい酔っ払いを育成中。

 

人生に無駄はない!!

を信条とし、やたら無駄の多い人生を楽しんでいる。

孤独死防止のためにブログ「遠くの親戚より他人のちか」をほとんど毎日更新中。

 

 ※4/14(月)銀座シグナスにてライブ予定。